昭和47年11月05日 朝の御理解
御理解 第4節
『此方金光大神あって天地金乃神のおかげを受けられる様になった、此方金光大神あって神は世に出たのである、神からも氏子からも両方からの恩人は此方金光大神である、金光大神の言う事にに背かぬ様良く守って信心せよ、まさかの折には天地金乃神と言うに及ばぬ、金光大神助けて呉れと言えばおかげを授けてやる。』
天地の親神様が此の様に教祖金光大神を評価しておられる、金光大神あって神が世に出たと言うておられる、皆んなも金光大神あって天地金乃神のおかげを受ける事が出来る様に成ったと、言うておられる成程双方からの恩人は此方金光大神であると。神様も教祖金光様の事を恩人と迄言わば讃えておられる、だから教祖生神金光大神と言う方がどの様な素晴らしいお方であったかと、言う事はこの一事だけでも分かる。
もうそれこそ後にも先にもこう言う氏子はなかろう、天地金乃神様からその様な御信頼を受けられた、恩人と迄言われる程しの教祖金光大神と言う方の、だから生きられ方又は金光大神の私共に示しておって下さる。いわゆる御教えその御教えと言う物が、おかげを頂くいわば決め手と言う事になるのです。最後の所にまさかの折りには天地金乃神様と言うに及ばぬ、おかげは天地金乃神様が下さるんだ。
けれども、おかげは神様が下さるのだけれども、常日頃に金光大神の言う事に背かぬ様に良く守ってと言うところが、なからなければおかげが頂かれない、おかげは天地金乃神様が下さる。だからまさかの時に金光大神さま助けてくれと言えばおかげをさずけてやるとこう、金光大神さま助けて下さい、と言うたけれどもおかげは受けなかったと言う人は沢山有ろうと思う。
例えば、今日は高校生の方が多いから、高校生の方が、信心すると矢張り試験なら試験の時に、金光様を念ずるに違いない、言うなら高校生にとっては試験の時は、いわばまさかの時である、金光さま金光さまをなんべんもとなえる、繰り返しとなえさせて頂いてもです、おかげを受けられないと言うと、是は天地金乃神様は、金光大神に嘘を教えられておると言う事になる。
神様が嘘をおっしゃるはずもないし、又それを、金光大神が此の様に、教えておって下さるはずはない、そこを私共は、信じさせてもらわなければならない。金光様をいかに、一心に唱えさせて頂いても、おかげは受けられないと言う、だから只金光様、金光様をまさかの時じゃなくてもとなえさえすれば、おかげを受けると言う事ではない、是はどうでも金光大神の言う事に背かぬ様に、良く守ってと言う事が、平生出来ておらなければならないと言う事になる。
日頃は教祖様の教えて下さる事を一つも良く守ってと、仰るのに守ってもおらずして、只金光さまと悲しい時の神頼みと言うだけではいけない。そこで私共は教祖様の教えて下さる事の全てを行ずると言う事は中々ですけれども、徹底して私共は一言でもよいから私は守り行じなければいけないと思う。所謂守らなければいけないと。昨日は神愛会でした、一時から所謂先生方の集いです信心研修です、大変それぞれ良い話しを聞かして貰いました中に。壱岐の末永先生の所の教会の御信者さんの話しを聞かして貰った。
あちらで信徒会の様な事があって選ばれた先生の所の御信者さんがお話になった、まあだ布教所から教会になられて間もない言うなら教会です。先日から御本部参拝のおかげを頂かれて帰られた、そしてその御本部参拝から帰られてから初めて教会になって、所謂信者さんが亡くなられると言うまあ悲しい事が起こった。御信者さんが亡くなられるとまあそれは悲しい事ですよね、教会長としては特に悲しい事ですしかも御本部から帰ってからも熱心にお参りなっとった。それが御本部から帰って亡くなられたとこう。
そこの嫁さんもまあ時折りお参りしておられたけれども、そう言う不幸な事があって、もうプッツリ信心が途絶えてしまっておる、毎日参ってみえておったのが参ってみえなくなった、教会長はいよいよ心配してその事を勿論神様にお願いさせて頂いておった。所が毎月此処で出ております、おかげの泉と言う本が向こうに行った訳です。それでおかげの泉を読まれてまあ気付かれた事です。その内容に私がこんな話をしておる事がおかげの泉に載っておった。
信心の継承と言う事が言われる、信心を受継ぐ受け渡すとこう。是は私が御理解を頂きましたその朝でした、私が何時もの様に三時半に控えに控えておって、ふっとふつうこんな事を思った事はないのですけれども、その日はその事が思われてならなかった。と言うのはです、今此処で合楽のお広前で沢山の人が助かっておる。けれども是がもし私が亡くなったらどう言う事になるだろうか、とこう、それは勿論跡を継ぐ子供達がおるし、いわゆる若先生が跡を継いでくれるだろうとこう思う。
けれどもその、私の時には沢山助かったけれども、若先生が時代になったらお参りも少くのうなったり、又おかげも受けられん様になるのではないだろうかと、今は皆が合楽合楽と言うて沢山参って来るけれども、私が亡くなったらお参りが少なく成る様な事はないだろうか、言うなら金光大神のお取り次ぎを頂いて助かって行くと言う人達がなくなる、少なくなると言う事は寂しい事だなと私は思うた。
私が頂いておる信心をです、例えば子供が、なら私の別に修行が出来る訳が無いけれども、私の様な修行が出来るとは思もわれない。私が通って来た信心を子供達が出来るとは思われない、そこにそう云う不安とも心配とも付かぬ心と、自分の心にかすめた時にね、神様からお知らせを頂いた事を、そのおかげの泉に書いてある訳です。ね。そりや何処でも初代先代と言うのは大変な修行をさしてもろうて、それこそあられもない修行をさしてもろうて人が助かる様になる、二代三代になるとそれが出来ない。
そこで信者も減ったり、助かる人も段々なくなって来る、そう言う事になったら寂しい事だなと私は思うたらね、それこそ後々の者は見易うおかげを頂かれると云う事はどう言う事かと、それは丁度ロウソクに灯がともっておる、そのロウソクが段々燃えて半分なら半分に燃えた時にです、例えばなら教会長が亡くなる、亡くなった時にその灯は消える訳です、ローソクの灯が。
けれども受け渡しておかねばならないと言う事は、そのローソクそのものを受け渡しておけば良いのだと言う事です。私はその御信者さんは、ようもややこしい表現で説いておる御教えをです、よっぽど綿密に頂かれたんだろうと思うんです。そこで後の子供はです、後の子供はそれに灯を点すだけで良いのです、残されたローソクに。ちよっと話が後先になりましたけれども、その信徒会かなんかで発表された話をテープに取ってある、それを昨日半ばで聞かせて頂いた。
まあお母さんが亡くなられたので毎日、まだ改式をしてないのですから、仏様を拝みよんなさった、確かにローソクを立てです拝まして頂いておるのに、風も無いのに途中でぷっつり消えた。それが不思議で不思議でたまらなかった。そこへおかげの泉が送って来た、それへローソクの事が書いてあった。お母さんが確かにローソクを残して居って下さるのだけれども、それを例えば子供はローソクが残してある事に気が付かなかった。一生懸命こうやって仏さまを拝んでいるけれどもです。
今ローソクが消えたのはですお母さんが喜んでいなさらない証拠に違いない。そう言う思いの時におかげの泉を読んだ、そこにローソクの信心の受け渡しの事が書いてあった。そこでお母さんが残してあるローソクに火を点ずるだけの信心が出来ればです、お母さんが喜んで下さるに違いないと思った。それから又お参りして来る様になった、49日のお祭りと言うですかね、その供養を終わられて家族中で皆んな話合った。
私達がお母さんが頂いておった信心を、頂くと言う事それがお母さんの喜びであるとするならばです、お母さんが残されたそのローソクに火を点ずると言う事が、お母さんの喜びであるならばです、是ゃどうでも皆んなで信心せにゃいかんばいと言うて、一家中でお礼参拝があったと言う事。それから一家中の信心が又新たな勢いで燃えだした。只親が信心しておるから子供も信心する、と言うだけではなくてねその信心の内容が、やはり「あっ」と言う様な熱のある物でなからにゃいかんと言う事です。
火を点ずると言う事はそれなのです。ローソクの修行が出来ていない、そりや親がして残しておってくれてる、しかし亡くなると同時に火が消えたのも同然。ですからその親の後をです生き生きした心でです、一つの熱情をもってその信心が受け継がれる時に、親の踏で来た様な修行をしなくても、火は点じる事は出来るのである、明るくなる。私は思うのにね信心はやはり光りだと思う。
信心はもうお徳を受ける為に信心はあるのだと思う。教祖さまの御教え全てが皆んな御神徳を受けさして頂く為の、御教えなんです、只おかげを受けるだけではなくてやはり御神徳を受けると言う事。なら神徳とは私は光だとこう思う、光と言うのは私はローソクに火が灯る、あのマッチの様なものであって。スッたらパーッと火が出る様なもの、そう言う信心でなからなければならない。
ただ拝みよります参りよりますと言うだけではいけない。信心の生き生きとした熱情と言う物がなければいけない。是もやはり先生が最後に話しておられた。その日壱岐から何回も電話が掛かってきた、ある事情の事をお届けがあった。それで四日の神愛会に参加させて頂く為に、二日の日から出て来られた、それで心の中にかかり心の中に迷い続けておる事が、あった事を電話でお伺いがあった。
それで私がね、私がしっかりお願いさしてもらうからね、自分で分からせてもらいなさいと私は言った。それで神様に一生懸命拝んだ、拝だから言ったらもう車の時間がもうあと十分しかない、そこでまあぎりぎりまで拝んだけれども判らなかった。そこで船にまあすぐ乗らせて頂かれたのでしょうけれども、船に一つ座席があったその座席の前にカレンダーが掛かっておった。どうした事かその日のカレンダーは誰かがもう千切ってしもうとったけれども、その次ぎの日のカレンダーにあのこう言う事が書いてあった。
「道を求めるより光を」と、信心で所謂求道と申しますね。道を求めると言う事、成程求道も有難い、道を求める事も有難いけれどもね、その道を求める事よりも「光を」と。私は是を頂かせてもろうて、確かにそうだなと思うんです。是は私が頂いている御教えですけれども「道と言う言葉に迷う事勿れ、道は教えを踏む外はなし」と仰る。道と言う言葉に迷うてはならない、道と云う物は教祖さまの教えて下さる事を、所謂今日の御理解で言うらな、ば金光大神の言う事に背かぬよう、良く守ってと言う信心。
そこから道はおのずから開けて来るのだと言うのです、私共が道道と言うと、違った道を本当の道の様に思い本当は間違っている事がある。手さぐりに道を求めた所でです、それは大変な事なのです、真っ暗な中に道を求めると言う事、だから求道と言う事よりもまず先に光を頂かなくてはいけないと言う事。光と言う事はなら私は、お徳を受けると言う事だと言う事、何かお徳と言うて大変難しい事の様だけど、信心すれば誰でも受けられるのが御神徳と仰る。
ならその御神徳を受けると言う事はです、頭が良いから器量が良いから、悪いから頭が良い悪いではないのです、教祖の教えて下さる事を良く守って、守ると言う事も是は徹し行ずると言う事。私の知った福岡の御信者さんで真鍋さんと言う方がおられる、お婆さんです言うなら無学に近いお婆さんです、けれども外の事は何も出来ないけれどもね、教祖さまが御地内をみだりに汚すなと仰ったからね徹底して是に行じられた。
御地内をみだりに穢すなと、私は一遍大掃除のお手伝いに行った事がある、その方の内に、それでゾウキンバケツを表に汚いのを撒こうとしよったら、上からけたたましい声で、大坪さん大坪さんと大きな声で呼ばれるから、びっくりして、それを表に撒ちゃならんと言われるのです。自分の体にでんそげな汚れた水をふっかけられるなら汚なかでしょうもん、と言うて流しに持って行って捨てて下さいと言う訳なんです。
もう徹底していわゆる御地内をみだりに汚すと言う事をなさらない、もう汚す所か、もう反対に清めて廻られる、汚すと言うだけではない、もう是に徹しられた、そりゃもう例えば道に汚いものでも落ちておると、わざわざ自分の家に帰ってホウキやらバケツやらもって来て、それを何も知らん氏子が御地内を、穢しておりますからどうぞお許し下さいと、その人の為にお詫びをしてやる。
そしてそれを実際に清めて廻られる。神様から色々とお知らせを頂かれる様になった、福岡の教会に大祭ともなると、その真鍋さんと言う方を中心に沢山の人が一緒に参る様になった。まるっきり内は教会の様に二~三十人位、毎晩晩の御祈念に参って来る。だから教祖さまの教えて下さる事をです、もう自分で出来る所謂御教えを一か条でも良いから徹して守ると言う事。しかもです御地内をみだりに穢すなよと仰るから、穢さないと言う事だけでは無くて、それをもう一つ清めて行こうと言う徹底のしかたである。
今頃の人達に、此の話をしてもです、御地内をみだりに穢さんと。何時でしたか妹が、久留米の西鉄の所へ待つとったら、えらい若い人達がお話をしておった。合楽の金光さまの事を話よった。「えらい合楽の、金光様は発効し御座るげなね、と云う話からね、俺もいっちょ参ってみろかち」「そればってん、あすけ参ると、おまやぁ外で小便もまられんげなぞ」と言って話よったと言う話を聞いて、私が御地内を、みだりに穢すなよと言うからでしょう。そりゃあ山に行ってからあなたね。
そのうそりや家まで帰らにやんと言うなら、大変な事ですからね。そう言うその事じゃないけれどもそう言うた「合楽に参ると外で小便もまられんげなじゃんか」と話よったと言う事です。けれどもねそげん言われる位にね、徹して見る事ですよ。私共の様に言うならばまあ何も分からないけれども、教祖の御教えを一言でも二言でも本気で守り、行じさせて徹底して頂くと言う事、其処ん所が私は今日は金光大神の言う事を、叛かぬ様に良く守ってと言う事はそう言う事だと思うです。
沢山な御教えを皆んな自分の身に付けてしまわなければならない、そこからです本気で行じ本気で守らしてもらうと言う事がです、光にもなり徳にもなって参りますとです外の御教えも守らなければおられない様になって来るのです。それが有難いです馬鹿らしくなって来るです守らなければ。けれどもだから兎に角是は一言でも良いから本気で御教えを守れと言う成程ささやかな小さな光でもいいその光が心に灯る様になる。
だから道がはっきりして来るそこから道を求めてゆきゃ、間違いのない道を求め進んで行く事が出来ると言うのである 求道、求道と言うといかにも良い様ですけれども、求道より道を求むる前に先ず光を頂くと言う事、金光さまの御信心は其処ん所に私は焦点をおいて信心の稽古をさせてもらわなけりゃならない。自分の心に灯る所の信心の光、その物がお徳である。
しかもそのお徳と言うのは勿論限りがない事、頂くと言う事に於いても限りがないのですけれども、その光を大きい光にお育てを頂くと言う事、お徳と言やあ神様の御信用と仰るから、あれも是もとは出来んにしても、もう此の事だけは徹底して行じ抜くと言う事になれば、あの氏子はあれは出来んけれども此の事だけは絶対だ、間違いない、是が神様の御信用なのです。
この氏子だけは、外の事は出来んけれども、此の事だけは、私の教えておる此の事だけは徹底して守る、此の事だけは、あの氏子は素晴らしいと言う氏子にならなければいけん。徹底すると言う事、あれも是も出来なくていいでしょう、それが光なのです。光になるのだ、神様の御信用是だけはあの氏子は間違がない、それなのです、神様の御信用は、いわば御神徳。
だからそう言う姿勢をもってです。私共が例えば是だけはと言う様に間違いのない信心をです、頂かせて頂いて、そして私は金光大神助けてくれと言えば、天地金乃神とは言わんでも助けてやると仰るのは、そこからはっきりです、なる程金光大神助けてくれと言えば助けられんだなと言うおかげが、いわゆる実証されて来る訳なんです。ただ自分の都合の悪い時だけ、又試験なら試験の時に、試験の時だけ金光様、金光様、と言うても大しておかげは頂けなかった。
溺れる者はわらをも掴む、と言った様な状態でただ金光様を唱えただけではです、助かる事はあるかも知れんけれども、助からないとすると、教祖のお言葉を半信半疑で受けなければならない。私は教祖の言葉を信ずると言う事が金光様の信心だと思う。そこでです、なる程金光大神助けてくれと言えば、助けられるだけの、助ける実証と言うものを、自分の心の中に確かめて行かなければならん。
金光大神のお言葉を、確認して行かなければないけん。それが大きく積り積もってどの様なおかげでも、頂けると言う事になる。お願いしたけれども思う様な、おかげになったり、ならなかったりと言うのではなくして、思う以上のおかげになって来るのが、金光様の御信心でなからなくちゃならん。それには先ず私共が、ひとつ道を求めると言う事も大事な事、けれどもまず光を頂くと言う事が先なのだ。光があるから、はっきりと道が判然として来る訳です。
その光が例えば、さっきから申しますローソクに火を点じると言う事、親に受け継がれたローソクが、いくら受け継いでおっても火が灯っていなかったらそれは何にもならん。只うちは金光様の信心をしておると言う事、それに火を点じると言う事がです、親の喜びであろうと気が付かれた、いわゆる郷ノ浦教会のご信者さんの場合。そしていわば本気で教会参拝が始まった。しかもそれが親の喜びならばと言うのと言うので、家族中の者がお参りさしてもらうと言う事が段々なって来ておりますと言う。
体験を発表しておられると云う話を聞かせ て頂いた。成程信心の継承継承と言う事を言うけれどもです、難しい事を言うて継承させ様としても中々ですけれども、例えばハハア信心の継承と言う事が、その様な物であるならば、ローソクに火が点じておった、亡くなると同時に火が消えた、そのローソクをまた受け継いで、私共が信心に熱をチヨットかけただけで又、元の様に明るく信心の世界と言う物が自分の心の中に、又は家庭の中に頂ける様になった。
信心の継承とはこの様に見易い物なんだと、けども信心の継承と言うのをそれこそ沢山の御教えを自分が覚えといて、それを子供たちに教え様と言うから難しい、それなら教えを受ける方の側でもそうである。あれも是も覚えんならんと言う事ではない、金光大神の言う事に背かぬよう、たつた一言で良いから徹し、行じ抜けと言うのである。ね。そこから道が開けて来る、そこからおかげが頂ける様になる。
たった一か条だけでも此の位、おかげ頂けるのであるからこりゃあ、ちったおかげ頂く為にはね、御教えの全てを本当に自分の血に肉にさせて頂こうと言う様な、精進の気構えも出来て来る道理なんです。光を先に頂けば道は本然と必ずして来ると。今日の御理解四節の御理解に少し話が反れた様にあるけれども、私は今日は此処ん所をとりわけ、金光大神の言う事を背かぬ様にの信心をさせて頂いて始めて、金光大神助けてくれと言えばおかげを授けてやると、仰るおかげを受けられるのだと。
金光大神の言う事に背きながら、守りもせずしておいて金光大神助けてくれと言ったのでは、虫が良過ぎると言う事。それは神様、おかげ下さるのです、実際は、金光様、金光様といやあ、日頃参りょらんでもおかげ下さるのです、けれどもそれはね、本当のおかげになって行かないて。今日はそう言う風に其処ん所を一つ、まあ強調して私は聞いて頂いたと思うんですけれども、金光大神の言う事に背かぬ様に、よく守って信心すると言う所をです今日は頂いてもらいたいと思うです。
どうぞ。